白河の城1

新地山館(白河市借宿)

白河駅から東に8km、阿武隈川の流れる平地の南岸、旧東村との境に際立って目立つ山がある。
この山全体が佐竹氏に対する白川結城氏の本土防衛最後の拠点、新地山館跡である。
赤館城が佐竹氏の手に落ちると白河の地は直ぐ目前であるが、社川沿い旧表郷村の城を調べて見ても防衛拠点となるような城はない。
このため、白河結城氏の防衛拠点はどこであったのだろうかと疑問を持っていた。
この疑問に対して白河市史には新地山館と龍害館は大規模であり、ここが佐竹氏に対する防衛拠点であろうと述べている。という訳で冬近くを待って早速出撃した。

城のある新地山の標高は393.5m、阿武隈川の標高が300mであるので、比高は100mほどである。山の南側を茨城街道が通るため、ほぼ独立した山であり南側以外は急斜面である。城を築くにはうってつけの山である。
山の範囲としては700m×500m、周囲は南側を除き水田地帯である。
山頂には羽黒神社があり、南側から参道がついているので夏でも登ることが可能である。
遺構は神社のために社殿の建つ付近と参道が一部改変を受けているが、ほぼ完存状態にある。
別名「人不忘山」といい、いくつかの和歌に歌われている。かつては松茸山であり白河藩主がこの山の松茸を幕府に献上したという。

山頂に建つ羽黒山神社は源義経家臣佐藤継信、忠信の母が息子兄弟の冥福を祈って勧進したものであると白河市が立てた説明板に書かれている。(城のことは一切触れられていない。)
 主郭部は最高箇所の羽黒神社の社殿が建つ場所にあり、南北の延びる主軸となる尾根筋及びそこから南東方向に派生する2本の尾根筋に曲輪群が築かれる。城は神社社殿付近を中心とした本城部分と南の尾根筋にある南出城の2つの部分からなる。
 山頂付近の本城は350m×250mが城域である。主郭部から南に延びる尾根は緩やかであり、堀切のある鞍部から南が若干高く、標高が370mほどの位置に南出城がある。南出城の大きさは100m×50m程度である。

 城へは切通しとなった南端の県道脇の羽黒神社の鳥居から参道が付いているのでここを登る。
いきなり100段以上もあるきつい石段があり、高さで40m程度登る。ここから先は比較的緩やかな道が続く。
この石段を登りきった緩やかな参道の山道の西側が南出城である。
4つほどの曲輪からなるが、曲輪はかなり曖昧であり、南端部の曲輪はどこまでが曲輪の範囲なのか判断しかねるほど不明瞭である。防御は貧弱であり、この出城で敵を防ぐことは考慮してはいないようである。単なる物見の砦にすぎないものである。
南出城は標高380mの山頂部に直径15mの曲輪があり、南側に曲輪が3つ、北側2m下に13m四方の曲輪がある。西側は削り残しの土塁になっている。
ここから北側が緩斜面となり、50mほど行くと堀切がある。この堀切の天幅は20mほどあるが、かなり埋没しているようである。
この北側が本城部分である。本城側には堀切に面し土塁がある。
西側に堅土塁が延び、堀底は西側下で曲輪につながる。堀切を越えると登りとなり、Vに示す段々の曲輪群が展開し、最後の石段を登ると曲輪Uである。
堀切からここまでは高さで20mくらいである。曲輪Uの周囲は土塁が覆っている。
大きさは30m×20mほどである。参道は後付けであり、本来の虎口は東側に開いている。
南の尾根沿いに攻撃を受けた場合、曲輪Uから有効な攻撃ができるように工夫したのであろう。
曲輪Uの南東側に尾根が派生しており、半円状の曲輪群Wがある。全て全面に土塁を持つ。曲輪Uの北側が2段になっており、神社の社殿がある。
社殿の北側が一段高く、ここが本郭に相当する曲輪Tであるが、ここは北風の吹きさらしであり、物見台に近い。
実質的な本郭は曲輪Tが風避け土塁ともなる曲輪Uであろう。
曲輪T、Uとも社殿の建設で地形は変わっているようであるが、社殿の部分を含む曲輪Tの広さは最大幅15m程度、長さ50m程度、曲輪Uからの高さは8m程度である。曲輪Tは東側に帯曲輪を持つが、西側は崖である。
登り口から社殿までは整備され、夏でも問題なく歩ける参道であるが、社殿の北側は手付かずの藪である。
それでもそれほど酷い藪ということはなく、冬場なら問題なく歩ける。ただし、写真を撮っても枝しか映っていなく泣かされる。
本郭の北側には土橋を持つ幅7mの堀切があり、長さ20m、幅7mほどの曲輪があり、その北は段々状になり、広い曲輪Xに出る。
ここが城の北側の防衛拠点であり、南側以外を土塁が覆う。西側は崖状であるが、下20mに幅5m位の帯曲輪が見える。
曲輪Xから北下15mに巨大な横堀が東から西に弧を描いて覆う。全長60m程度。深さ5m位ある。
この規模の横堀は付近では寺山城程度であろう。曲輪Yの東側に土塁間に虎口が開いており、ここから南東に延びる尾根筋に曲輪が高さ4mほどの段差で4つある。いずれも前面は土塁に覆われる。
館跡が東の山麓にあったといい畑になっている平地がある。ここから登る道が大手道であったという。
おそらく曲輪群W、Yのある尾根筋に大手道が通っていたと思われる。どちらかというと作りが堅固な曲輪群Yを通っていたのではないかと思われる。
以上が新地山館で確認した遺構であるが、まだ、尾根筋の先に遺構がある可能性もある。

西側から見た新地山。比高100m近い
迫力がある山である。右手平坦部が南出城。
県道脇から羽黒神社の登る石段。きついのはこの石段のみ。後は比較的平坦な道である。 南出城と本城部を区切る堀切。かなり埋没しているが幅は20m近い。 本城の曲輪V内部。左手に腰曲輪がある。
曲輪Vから曲輪Uを見る。左右に小曲輪が見える。 曲輪U内部。周囲を土塁が覆う。 本郭に建つ羽黒神社の社殿。 本郭から見た白河方面。かなり眺めが良い。
本郭の西側は崖である。 本郭北側の曲輪から本郭を見る。藪で良く分からん。 曲輪Xの北15m下に巨大な横堀が長さ60mに渡って横たわる。 曲輪Xの東側に虎口が開く。ここが大手道であろうか?
曲輪群Wの1つである。内部に土塁が巡る 曲輪群W先端の切岸。この先にもまだ曲輪があるようである。 新地山の南東側の山に衣館があるが、未攻略。

白河東部では寺山城の次位の要害性と規模を持つ戦闘用城郭であり、佐竹氏に圧倒されつつあった白川結城氏の緊迫感が切実に感じられる城である。
ここを突破されれば本拠の小峰城までの間に防ぐものはない。
城は佐竹氏の侵攻に晒される以前から存在していたと思われるが、今の姿は佐竹氏の圧迫が強まった時期に整備されたものであろう。
なお、棚倉から白河までは社川沿いの侵攻ルート(旧表郷村)も存在するが、この方面は小規模な城ばかりで、防衛拠点としては旧城の白川城程度である。

城主は大塚宮内左衛門尉であったという。
天正7年(1579)白河結城氏の内紛につけ込んで佐竹氏が小峰城を攻撃する。
この時、白河結城氏はセオリーどおり新地山館(新知山という名で登場する。)と龍害館に軍を置き佐竹軍と戦う。
「白河古事」によると佐竹勢先方に対してはここから出撃した鈴木若狭守、大越信濃守が撃退する。本城を守る最後の砦としての機能は果たした訳である。
しかし、別ルートからの侵攻で佐竹勢に小峰城を攻略されてしまい、この城も自落に近い状態になったようである。
佐竹軍が兵力にものをいわせ、多方面から侵攻したことと、白河結城氏に内紛の影響が残り、十分な迎撃体制を敷く余裕のないごたごた状態で戦闘に巻き込まれたのであろう。この城の要害性ならやる気のある将兵が一定数いれば簡単には突破できないと思うのだが、本城を落とされてしまったのではどうしようもない。
白川結城氏を屈服させた佐竹氏がこの城を整備したかどうかは不明であるが、寺山城と似た巨大横堀は佐竹氏が整備したものかもしれない。
(なお、この付近の城はほとんどが横堀を持つため、寺山城の横堀も白川結城氏の手によるものと考えられないこともない。)

龍害館(白河市田島)

新地山館の南西にある城である。
両城の主郭間の距離は1q、城域で最も接近した場所で300m程度である。間を御斉所街道(県道11号)がとおる。
城のある山は北東から南西に延びる長さ500m、幅200mの大きさであり、標高は360m、北下の低地の標高が310mであるので比高50m程度。
北側の斜面が急傾斜であり、南側が緩やかである。城域はフラットな山頂部に250mほどにわたって3郭が並ぶ。
城には南側から登る林道がある。この道がどうも大手道であったようである。道を上がると大手口が開き、曲輪が展開する。
最高箇所中央が本郭であるが、50m四方の大きさであり、内部はあまりフラットではない。
周囲を帯曲輪が3段ほど巡る。土塁は確認できない。
東側の鞍部の東にも曲輪があるが、ここは緩斜面であり、曲輪という感じはない。結構藪であり、西側のもう1つの曲輪に行こうとしたが竹が密集していて行けなかった。白河市史には新地山館と並ぶ対佐竹用の大規模な城郭としているが、余りそんな感じは受けない
。要害性も今1つである。曲輪が広いのでどちらかというと軍勢集合・駐屯用の城郭という感じである。
この城も天正7年白河結城氏の佐竹氏の侵攻で戦場となり落城する。この時は城主田島信濃守景久が戦死しているというので激戦が展開されたのであろう。右の鳥瞰図は西側の曲輪は確認できないため、中央の本郭と東の曲輪のみを描いてみた。
西側から見た城址。左に新地山館が見える。 南側の林道を登ると大手口がある。 大手口東側の曲輪。 本郭東側の腰曲輪から本郭を見る。藪が酷い。

皮籠原上杉軍防塁(白河市皮籠)

白河市南部の皮籠地区は、慶長5年(1600)上杉景勝と直江兼続が徳川軍を迎撃しようとした場所である。
ここはJR東北線白坂駅から東の方向にあたり、低い丘や山が複雑に入り組んだ地形をした場所である。
上杉軍防塁と言われる遺構は、白河南中の東500mにあり、鍛冶屋敷とも呼ばれる。
中世の屋敷の跡ということになっているが、土塁の形式などからこれこそが、上杉軍の防塁とされている。370mにわたって残っており、直線を基本とするが、ところどころ凸部があり、横矢がかかるようになっていたようだ。
本来は数qにわたって続いていたといい、今でも防塁跡と思えるような場所が多少ある。
当時、この付近に3,4万の上杉軍が展開し、東の棚倉の赤館城、寺山城には2万の佐竹軍が展開し、この地に徳川軍を誘きいれ迎撃殲滅する手はずことになっていたという。
歴史にイフはありえないが、ここで大会戦が行われていたら、その結果次第では、全く違う日本の歴史となっていたのかもしれない。
でも、この場所では結局、何も起こらなかった。
そこには、のんびりとした田舎の田園と山の風景があるだけである。
堀はかなり埋没しているが幅は8mほどある。i 堀に付随する土塁。左側は削られているようだ。 遺構の南側には水田地帯が広がる。
かつては湿地帯であろう。ここが想定戦場?

田島館(白河市田島) 

新地山館沿いの阿武隈川上流域(白河市街東部)白河結城氏家臣団の館が多く存在する。

龍害館の北西1qにある。田島氏の館である.
堀跡と思われる写真の部分が見られるのみである。

本沼館(白河市本沼)
白河市街から中島村方面に向う県道139号線沿い、本沼地区にある。
白河市役所からは東に4kmほどである。
本沼の交差点、北西側一帯が館跡であり、写真に示す堀と土塁が一部、残存するが、ほとんどは宅地となって隠滅している。

明治期の区割りによると本沼集落一帯が館跡であり、東西200m、南北650mが館域となる。
したがって、県道(右の航空写真の中央部を横切る道路)の南側にも館域が広がっていたようである。
連郭式に3つの曲輪があったようで、土塁が覆っていたらしい。
その残存らしい部分が、県道の南側にも存在する。

現存する部分は、上右の航空写真(昭和50年国土地理院撮影)の中央左の林の中に存在する。
ここはもっとも北側の曲輪のようである。


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